罪業を消す
滅罪生善という言葉がある。これは悪行の因を滅しそれを良い方向に向ける方法のことである。心から懺悔して仏法僧の三宝に帰依することなのである。この事によって罪業は日光に照された霧のように跡形もなく消える。その人は心身ともに洗いたての白布のようにきれいになることができる。これが滅罪である。我が父を殺したアジヤセ王が、その報いで不知の病にとりつかれた時、釈尊のこの教えで救われたという有名な観無量寿経の話は滅罪と物語る代表的なものである。
人間は業行といって、身、口、意の三つによって善い事も悪い事も行うのである。滅罪もこの三つの形に表して行う必要がある。その善事善行には読経、念仏、写経、造塔、造仏などの仏事があるが、一口でいえば仏に供養することである。これによってよい果報を生むわけである。これが生善である。
この善根の功徳は自他ともに廻向(功徳を振りむけること)されることになり、かえりみなかった水子の霊は鎮魂し供養され救われるわけである。それとともに親も罪を滅し善を生ずることによって果報を得るのである。そして善根を積めば、その蓄積がめぐりめぐって善果となって自分の身に戻ってくるわけである。水子供養の大切さを人にすすめ供養をすることは、供養のすすめによって善行をすすめた事となり、供養をした人とともに果報を受けるのである。自分自身が善行を行うことはもちろん、人に善行をすすめることもその人にとっては善根を積むことになるわけだ。
運命の正常化
人間には運命と宿命がある。宿命とは父母をもって生まれた子供の存在、すなわち何をもってしても変えることのできない存在のことである。この宿命の系列に水子があるということは、宿命的な存在になって末代にわたって悪因をかかえることとなる。そこで滅罪生善をはかるわけであるが、これを宿命の正常化といっている。
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