仏教に説かれているように、人間の命は和合をもって母体に発した瞬間からその発生をみるわけで、母体の大小には関係はない。涅槃経においては、胎児が母の体内で成長を重ね、二百六十六日をもって出生すると説かれている。和合をもって発した生命は生まれたい生きたいと願っているわけだが、この胎児はある時は流産、死産によってこの世に生を受けないこともあるわけである。また、この世に生まれたいと願いながらも親の都合で生命の芽を摘みとられ出生の機会を得ることができないということは誠に不幸なことといわなければならない。どのような事情があろうと、人間は生まれ生きる事に価値があるのである。自分の肉体に宿った生命を自分の都合で抹殺するのは良いことではない。水子はその理由がどうであれ、この世に生まれ得なかった小さな命のことを意味する。
因と果について
「因なくして果ある事は、事理なし」というのは釈迦尊の言葉で仏教の根本的な教えである。朝顔の種を播けば朝顔の芽が出て花が咲くが何も播かなければ絶対に芽は出て来ない。今何らかの結果があるということはその結果を招く原因が必ず存在する。何かの原因があれば必ず結果がある事は誰でも理解できる因果の法則である。そしてこの因果の法則には例外はないのである。善因(良い種)に善果(良い結果)が生ずる。悪因(悪い種)には悪果(悪い結果)が生ずるのは当然である。善因悪果、悪因善果は絶対にないのである。果報とか因果応報という言葉もこれらを物語った物である。
現在幸福な人は過去の善因の果報が現れているだけで、不幸な人は過去の悪因の果報を受けているのである。この果報はまた、生きている一生だけに限って現れるものではない。先にも述べたように三世(過去、現在、未来)にわたるのである。すなわち我々の知ることのできない長い期間にわたって作用する法則なのである。
同時因果と異時因果
そこでこれらの因果関係を区別すれば、同時因果と異時因果とに分けられる。同時因果とは原因を起こせば結果がすぐに現れることである。水に一滴の墨をたらせば黒く染まるように、墨を落としたという原因によって水が黒くなったという結果が現れるのである。喉が渇いた時に水を飲むと、喉の渇きが止まるという結果が得られる。このような因果関係を同時因果という。
柿の種を播いたとする。しかし、すぐに柿ができるわけではない。水をやり、太陽の光を受け、土の栄養に助けられて成長し芽が出、葉が出て柿がなるわけである。種を播いてから柿がなるまで通常八年かかるといわれるように種を播いて柿がなるまで相当の時日を必要とする。山々に鬱蒼と生える大木も数百年の年月を経ているのである。千年前の蓮の種が芽を出して花が咲いたといことがあったが、これは、実に千年の年月を経ているということである。これらを異時因果という。
異時因果においては年月、時間の長短は関係なく、要は原因を生ずれば必ず結果が起きるということなのである。このように考えてくると、親の勝手な意志でこの世に生を得なかった水子という存在即ち、その原因が供養もされなければ悪因を発したことになる。同時因果、異時因果という二つの法則にあてはめれば、必ず悪果が起きるわけである。
今その影響を受けない人でも異時因果という尺度で考えれば末代、未来永却に及ぶわけである。たとえばまったく意味なくして多くの人を前にして空中で手を振ったとしよう。意味なくして手を振っても、原因を起こせば結果が起きる。意味なく手を振っても多くの人は振りむくだろうし、手の周囲の空気は乱れているはずである。このようにまったく意味のないことであっても原因を起こせば結果が様々な形で生じるのである。
ましてや水子の場合は生命である。その生命がどの様な理由であろうと、放置され顧みられることも供養されることもなく存在するということは、誰が考えても悪因である。それが故に悪果が起きるのである。ではどすればよいか良いのか・・・・。
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