W 供養のこころと意味


 1 なぜ追善供養というのか


仏教は三世因果の道理を説くものである0現在を中心に過去、未来に人間の生命もつながっていると考える。
置において人間は、身・口・意の三つによってさまざまな行いをするわけである0それにょって生じた善悪の原因は、その人間の因縁となりこの三世にわたって作用するのである0現世において書きこと、悪しきことを行った結果は、その人間が生きている問に現れることもあーれるし、遠い未来に現れることもあるのである・
  もし現世にそれが現れないときは、死後その結果が現れ、積善の人はその書き果徳を受け、 悪業の強き老は、地欺、戯鬼、畜生の三悪道に落ちて苦しむと説いている.死後に書き果報を 受けている霊に対して、ますます書き道に歩むように、また悪道に落ちて苦しみもだえている
  霊を、その苦悩から逃れて安楽の道へ差し向けるように行うのが追善供養である.
  追善というのは「追復修善」を略したものである。僧侶を招いて仏壇を飾り、お経を読んでいただくことは霊に対するもっとも良い供養である。
  供養とは「供給資養」という意味である。ご本尊に、または霊に対して供物を供え、読経をするのも供養であり、親族知己や僧侶に食事を出すのも、葬儀の時に貧者に施すのも供養である。

第一部 生活の中の仏教

 このように、供養する心が起きるということは、良い原因を発するということであり、それによって幽界に去った霊は歓喜すると共にカづけられ、良いめぐりが生ずるのである0それを廻向という.

2 廻向とは

 廻向とは廻転趣向という意味である・これは供物を供えたり読経をするその功徳を錮らし転じて、亡き霊は無論、拝む人自身にも仏果を廻らして良い方向に向けることをいうのである。
「大乗義疏」という仏典では菩提廻向、衆生廻向、実際廻向の三つをあげている・
 菩提廻向とは悟りの心を求めることをいい、これが原因となって徳を積むことをいう。また、衆生廻向とは盲人問平等の観念を持ちすべての人を愛するために、その功徳が及ぶことを願うことである。三つめの実際廻向とは現世においてはいろいろの迷いごとがあるが、真実の知恵と真理を会得し素晴らしい人間にならんとすることである・

 3 追善供養の心得

追善供養を行うにあたって心得なけれはならないのは、真心をもって行うということである。客人を迎える時、心のこもらぬご馳走を並べても、見えすいたお世辞をいっても喜ぶはずがない。山海の珍味がなくても心こもった手料理で迎えるなら、客も喜ぶに違いない・このよぅに追善供養を行う場合も客人を招待するような心がけが必要である0敬虔な態度で仏さまをおまつりする必要がある0僧侶が営む各種の法事もその次第は常にこの精神に貫かれ重んぜられているのである・仏前において、上品の礼をもって敬々しく礼拝を朗するということは、人間としてまず仏さまに最も丁寧な礼を最初にすることを意味している。
種々の作法もすべてこの精神によって構成されているわけで、法要は無論のこと、平時の仏事の心得も、この心をおろそかにしないことである。
 お供えするすべてのものは清浄なものを用意し、仏飯を誰よりも先にお供えするということもこの様な意味からである。この心を忘れていては、仏事における功徳は減退し仏さまや霊も喜ぶはずもない。このように追善供養を営むことによってご本尊や霊に通じて苦しみもだえている霊を良き世界に引き上げることができるのである。成仏できるとともに施主やゆかりを持つ老も信心が倍増して、功徳善根を積み、仏典によれば全部の功徳が七とすればその霊は七分の一を得られ、後の七分の六は生きている者、即ち供養を行った者が得ると説いている。これ七分獲一という。


 4 遺物分け


 形見分けという風習は地方によって異なるが、普通は葬儀の翌日か、七七日、忌、追善供養とかに行うのが通例である。これは故人の持ち物を親族や縁の深い老に分けることであるが、もともとは仏陀が生前身につけておられた衣を分けられたことに端を発する。この風習は遺物を頂いた者が、その衣をみるたびに故人を思い出し、諸行無常を確知し、現在健康に生きている事を喜び、また、欲にとらわれず慈しみの心をもって人に壊し善根を積むように願われたものである。
 形見分けにほこのような意味があるので、故人の持ち物を我れさきに求めてはならないし、ましてや善し悪しを云々してもならない。形見分けばかりでなく遺産の分割においてはしはしば醜い争いが見られるが、これらも含めて極力醜いことはさけたいものである。


 5 七日、七日の追善供養について


 故人のために七日、七日の供養を行い、四十九日問は特に心して追善供養を成すということは一般的な仏事とされている。これは死後問もないことで、故人が功徳を受けることも希薄なために特に大切なこととされている。
 地蔵菩薩本願功徳経には「七七日の内に広く諸々の善を作れば、この種々の衆生をして長く意趣をはなれ人天に生ずる事を得て、勝妙の楽を受けしめ、現在の春属は利益無量なるべし」と説かれている。また梵網戎経には「父母、兄弟、和尚、阿閣梨、滅亡の日及び三七日及至、七、七日、又、大乗律経を講読し斉会して福を求むべし」とある。

大港頂経には「尊経を転読して、三七日を迎うべし、命終の人中陰の中にありて身、小児の如し、罪福未だ定らず、まさに為に善事を修サベし、瞭わくほ望老の神、十法無量の刹芝生じこの功徳を受けて必らず往生せしめん」と説かれている。以上のように死後七日日ごと忙追善の供養を営むのは仏典に説かれているように重要な意義がある。
考えてみれば、現世において人間は心して善事を行っているつもりでも、知らず知らずのうちにょこしまな気持を起こしたり、人の悪口をいったり、殺生をしているものである。このようなことから現世の悪業にょって生じる死後の苦しみを軽減するために、特にこの四十九日は大切であり追善の法要がなされるのである.


 6 六種供養

 生別に水、塗香、花、焼香、飲食、燈明などを供えるのが通例であるが、これにはそれぞれ意味がある0この六つを供える事空ハ種供養というが、仏教の徳六波羅密とも閑係をもっている0すなわち水は布施行であり、塗香は持戒行であり、花は忍辱行であり、焼香は精進行であり、飲食は禅定行であり、澄明ほ知慧行を意味している。
 そしてその一つ;の意味であるが、水は一切のものに差別をつけずまさに仏心そのものである。万物を潤し成長せしめ、不浄なものを洗い活めるのも水である。このようなことから仏の大慈、大悲の心に通じ水すなわち閑伽すなわち布施行に通ずるのである。
 塗香とは手や身体に塗って済めるお香のことである。仏陀の国・印度では、熱帯国であるため、しばしば生活面において悪臭を発する。そこで、塗香はこの熱苦を去って清涼ならしめる働きをするのである。塗香には清浄なる性徳があるということで人間の煩悩の熱苦を除いて清涼にすることに通じ、戎を保つということにもなるので持戒行と一致するのである。花は四季いずれの時でも人々に心の安らぎや喜びを与える。その時のその心を日常の生活に移したら、どんな事をいわれてもしむけられても花のごとく和やかな忍ぶ心が持てるというわけである。
六汲羅密経には「忍辱を持って華髪となし、その身を笹庶せよ」とあるようにその和やかな心は忍ぷ心に通じるのである。
 焼香とは仏前で香を献ずることである。この香は香ばしい香りをどこへでもあまねくおよぼし、つきるまで燃え不浄をのぞくという三つのことを備えている。人間が日頃修養するにも、この焼香が最後まで焼けるように辛抱強く努力が必要である。このようなところから精進行とするのである。
 飲食とは御飯、お菓子、餅、果物などをいう.人間は空腹になると落ちつかないし、喉が渇わくと水を欲する。時には人の物を盗んででも飲んだり食べたりするものである。ところがこの空腹を満たし、渇きを潤すと心身が静まるものである0修養するには心を静かに雑念が起こらぬようにすることが肝要であるから、心が乱れザ精神統与ることを禅定といぅように、落ちついた心をつくる意をもって飲食を禅定行とするのである。
燈明を点ずると薄暗い所は隅々まで明るくたる0朝、陽が昇ると隅なく光がおよぴ、万物はありのままの姿を現す0まさに仏陀の説かれる知恵というものはこの光明によって、あまねく迷う人を救い、隅々までいきわたらせ、人間纂望貰えるともいえるところから燈明を知恵としたのである。

 7 運を開き睾をよぶ水子供養

 水子とは

水子とは胎児が出産期を是ず、自然是は人工的(医学的)に流産左場合を指し、現在圧倒的に多いのは中絶にょる水子である0やむを得ない事情があるにせよこれを放置しておくことはまことに好ましいことではない〇一人の人間としてこの子どもたちが生まれてくれば親の意識も変わるだろうが、聞から閣へ葬ってしまうのでその存在を軽視しかえりみることもないわけである。中には何の罪悪感もなく、物でも捨てるようなつもりでいる人もいるので恐ろしいことである。しかしながら水子の存在は常に気にかかる存在で、父親は勿論、我が身を痛めた母親にとっては忘れることのできない出来事である。
 仏教では過去、現在、未来を三世といって、すべてこのつながりの中で生きていると説く。現在自分がいるということは、潮ってみれば多くの先祖がいたということである。不幸にしてこの世に生まれなかった子供でもこのつながりの中にあるわけである。水子もいってみれば父母の肉体を借りて (託生という)命を得たということなのである。
 浬築経の一説に胎内五位、胎外五位が説かれその人間の生成過程が述べられている。解剖学や人間の生命の誕生が医学的に解明されていない時期に、これらを仏典で明らかにしたということは恐るべき洞察力といわなければならない。
 仏典に説かれているように、人間の命は和合をもって母体に発した瞬間から命の発生をみるわけで、母体中の胎児の大小には関係はない。浬輿経においてほ、胎児が母の体内で成長を重ね、二百六十六日をもって出生すると説かれている。和合をもって発した生命は生まれたい生きたいと願っているわけだが、この胎児はある時は流産、死産によってこの世に生を受けない時もあるわけである。また、このように生まれたいと願いながらも親の都合で生命の芽を摘みとられ出生の燐会を得ることができないということは、誠に不幸なことといわなければならない0
どのような事情があろうと、人間は生まれ生きる事に価値があるのである。自分の肉体に宿った生命を自分の都合で抹殺するのは良いことではない0水子はその理由がどうであれ、この世に生まれ得なかった小さな命のことを意味する。

 因と果について

「困なくして果ある事は、事理なし」というのは釈迦尊の言葉で仏教の板木的な教えである.
朝顔の種を播けば朝顔の芽が出て花が咲くが何も播かなければ絶対に芽は出て釆ない。今何らかの結果があるということはその結果を招く原因が必ザ存在する0何かの原因があれば必ず結果がある事は誰でも理解できる因果の法則である0そしてこの因果の法則には例外はないのである0善因(良い種)豊巣(良い結果)が生ずる0悪因ハ悪い種)には悪果ハ悪い結果)が生ずるのは当然である0善困悪果、悪因善果は絶対にないのである。果報とか因果応報という言葉もこれらを物語った物である。
 現在幸福な人は過去の善因の果報が現れているわけで、不幸な人は過去の悪因の果報を受けているのである0この果報はまた、生きている壷だけに限って現れるものではない。先にも述べたよう竺世(過去、現在、未来)にわたるのである0すなわち誓の知ることのできな そこでこれらの因果関係を区別すれは、同時因果と異時因果とに分けられる。同時因果とは原因を起こせは結果がすぐに現れることである。水に一滴の墨をたらせは黒く染まるように、墨を落としたという原因によって水が黒くなったという結果が現れるのである。喉が渇いた時に水を飲むと、喉の渇きが止まるという結果が得られるこのような因果関係を同時因果とい
 柿の種を播いたとする。しかし、すぐに柿ができるわけではない。水をやり、太陽の光を受け、土の栄養に助けられて成長し芽が出、葉が出て柿がなるわけである。種を播いてから柿がなるまで通常入年かかるといわれるように、種を播いて柿がなるまで相当の時日を必要とする。
山々に欝蒼と生える大木も数百年の年月を経ているのである。千年前の蓬の種が芽を出して花が咲いたということがあったが、これは、実に千年の年月を経ているということである。これらを異時因果という。
 異時因果においては年月、時間の長短は関係なく、要は原因を生ずれば必ず結果が起きるということなのである。このように考えてくると、親の勝手な意思でこの世に生を得なかった水子という存在は、その原因が供養もされなければ悪因を発したことになる。同時因果、異時因果という二つの法則にあてはめれは、必ず悪果が起きるわけである。
 今その影響を受けない人でも異時因果という尺度で考えれは末代、未来永却に及ぶわけであ′
ぞたとえばまったく意味なくして多くの人を前にして空中芸を振ったとしよう。意味なくし妄を振っても、原誓起こせは結果が起きる0意味なく手を振っても多くの人は振りむくだろうし、手の周囲の空気は乱れているはずである0このようにまったく意味のないことであ つても原因を撃」せば結果が様々な形で生じるのである。
 ましてや水子の場合は生命である0その生命がどの様な理由であろうと、放置され顧みられることも供養されることもなく存在するということは、誰が考えても悪因である。それが故に悪果が起きるのである0ではどうすれば良いのか
 滅罪生善という言葉がある0これは悪行の困を減しそれを良い方向に向ける方法のことである0心から懐悔して仏法僧の三宝に帰依することなのである0この事にょって罪業は晃に照らされた露のように跡形もなく消える0その人は心身ともに洗いたての白布のようにきれいになることができる。これが滅罪である。我が父を殺したアジヤ芸が、その報い完治の病にとりつかれた時、釈尊のこの教えで救われたという有名な観無量寿経の話は算をもの語る代表的なものである。
人間は三行といって、身、ロ、意の三つにょって善い革も悪い事も行うのである。滅罪もこの三つの形に表して行う必要がある0その善事善行には読経、念仏、写経、造塔などの仏事があるが、言でいえは仏に供養することである0これにょってよい果報を生むわけである。こい長い期間にわたって作用する法則なのである。
 そこでこれらの因果関係を区別すれは、同時因果と異時因果とに分けられる。同時因果とは原因を起こせば結果がすぐに現れることである。水に一滴の墨をたらせは黒く染まるように、墨を落としたという原因によって水が黒くなったという結果が現れるのである。喉が渇いた時に水を飲むと、喉の渇きが止まるという結果が得られる。このような因果関係を同時因果という


第一部 生活の中の仏教

悪果が起きるではどうすれば良いのか

滅罪生善という言葉がある0これは悪行の困を減しそれを良い方向に向ける方法のことである0心から俄悔して仏法僧の三宝に帰依することなのである0この事にょって罪業は日光忙照らされた露のように跡形もなく消える0その人は心身とも払洗いたての白布のようにきれいになることができる¢これが滅罪である0黎が父を殺したアジヤ芸が、その報いで不治の病打とりつかれた時、釈尊のこの教えで救われたという有名な観無量寿経の話は波罪をもの語る代表的なものである。
 人間は三行といって、身、ロ、意の三つにょって書い事も悪い事も行うのである。滅罪もこの三つの形に表して行う必要がある0その善事善行忙は読経、念仏、写経、造塔などの仏事があるが、言でいえは仏に供養することである0これにょってよい果報を生むわけである。これが生善である。
 この善根の功徳は自他ともに廻向(功徳を振りむけること)されることになり、かえりみなかった水子の霊は静まり供養され救われるわけである。それとともに親も罪を滅し善を生ずる
ことによって果報を得るのである。そして善根を積めば、その蓄積がめぐりめぐつて善果となって自分の身に戻ってくるわけである0水子供養の大切さを人にすすめ供養をすることは、供養のすすめによって善行をすすめた事となり、供養をした人とともに果報を受けるのである0
自分自身が善行を行うことはもちろん、人に善行をすすめることもその人にとっては善根を績むことになるわけである。
 人間には運命と宿命がある。宿命とは父母をもって生まれた子供の存在、すなわち何をもってしても変えることのできない存在のことである0この宿命の系列に水子があるということは、宿命的なものになって末代にわたって悪因をかかえることとなる0そこで滅罪生善をはかるわけであるが、これを筆者は宿命の正常化といっている0
 
 水子供養で■番恐ろしいこと

因果関係には同時因果と異時因果があり、異時因果は三世にわたって作用すると前に述べた。この事からいうと水子供養で一番恐ろしく、また気をつけなければならないことは、水子ーを生じせしめた両親が現世においてその正常化をはかっておかなけれはならないということである。
   もしその両親が死んだ場合、水子の存在を誰も知らなくなる。そして、末代に至ってその結果が現れた場合困ることとなる。一家一族の末代に対する責任を負わなければならないという  ことである。末代の老にとっても自分の知らない悪果を受けることになり困ったことである。
   それゆえに、水子供養は両親が現世に生きている間に、正しい形で供養をしなければならない。当院にも老齢の婦人が供養に来られるのは末代に対する責任を感じられるからである。
  これほ背負い続けた心の重荷を仏さまにあずけるという心の発露からと思われる。この供養をされた後、釆た時とは別人のように心も晴れやかに足どりも軽く帰って行かれる姿がいつも印象的である。


第一部 生活の中の仏教
 正しい供養の方法


 水子には形がない。この世に生まれたなら名前や骨や遺品があるはずだが、水子の多くの場合は名前も骨もない。親すら沸も知らず、母の胸に抱かれる事もなく、父の慈愛も知らないであの世に去った存在である。
 そこで、水子とは元来、形のない存在であるからこれに形を与えることが必要である。存在をつくるのである。当院では一霊一基の位碑を作り戒名をつけ永代にわたって供養をする。位牌を作るということは霊のよるところを作るということである。
 仏教においても他の宗教においても、位牌のようなものに霊が宿ると考えられている。キリスト教においても十字架の碑を建てるようなものである。お基はだから同じく大型位牌といえる。塔婆も石塔も同じである。水子の場合、俗名がなく戒名のつけようがないので、経典の中から文字を項戴してこれを戒名として授けるのである。
 そして位粋ができたら入魂し、形のなかった水子の存在を形あるものとして天寿殿霊位堂にまつり、毎朝法要を行い永代にわたって供養するわけである。なお水子供養の申し込みについては、釆院される万だけではなく郵送の申し込み者も多く、多忙な人、遠隔地の人、欧米各国からの申し込みもある。郵送の場合は到着と同時に各霊ごとに法要を行い廻向する。
直接来院の場合は参列をしてもらい法要を行う。いずれも三方月有余で位牌ができるので再び入魂し法要をする。
 水子供養は多くの人生相談から自然発生的に生まれたものである。何をやってもうまくいかない、病気がちである、不孝が重なる、よく子供がケガをする。孫がおかしくなった − など、様々な相談が持ち込まれるが、実に九八バーセソトの人に供養されていない水子があることに気がつく.

これらの人は水子の存在を顧みる心を持たない人たちであったが、話をしていくうちにこの水子の問騒がわかり、驚くわけである0このようなことを経て水子供養が始まったわけである。
さて、この現実から水子供養における親の悩みは何であるかを分析すると、平素は顧みることはなくても心のどこかにわだかまりとなって残り、最終的にはどこでどのような供養をしていいのかわからないということらしい。
 この悩みを救うために当院では全国的な規模で広報活動をしている0その結果、水子供養が見直され、思い当たる人は無論のこと、全国各寺においても認識され始めたのはまこと望ましいことである。
 しかしながら風聞によるところによると、あまり水子供養としてはかんばしくない供養の方法をとっている場合もあるようである
水子供養料として法外な供養料を請求したり、商売のように考えているのは悲しいことである0水子供養の場合はやはりそれに適した方法で行って貰いたいものである。
 当院ではできた水子の位牌は原則として当院で永代供養をすることにはなっているが、持ち帰りの希望があれは、戒名を霊名過去帳に残し、これをもって永代供養を行っている。
 ところで七万霊に及ぷ水子供養の中から統計をとると、まず第一の影響に同系列の子供があげられる。現在の子供の情緒障害など難しい問題をかかえた背後には必ずといってよいほど水子があるという事実がある。これには母親、父親が異なっても影響度があることを認めぎるを得ない。
 ある男性が過去に女性と関りをもって水子があった場合、現在の妻との子供も同系列として関係がある。逆の場合も同様で、】方の親が違っても子供には変わりない。この影響はまさに実例をみていて不思議というほかない。
 第二の影響は両親である。夫の仕事がはかばかしくない、うまくいったと思うとまた悪くなるというくりかえしをしている人。またしはしば事故に見舞われたり病気の絶え間ない人。女性の場合は常に頭痛があったり、足、腰などが痛いとか、自覚症状がありながら医師の診察を受けても何でもないという例が圧倒的に多い。
 到着した礼状の中から実例を拾ってみると、夢の中に子供が出てくる、子供の泣き声が聞こえる。たびかさなって水子にした数のP−ソクが立っている夢をみるとか、怪奇現象を訴える人さえある・中には中絶してからノイローゼになったとか熱睡できないなどの訴えがある。
そして子供養をしたことにょってそれらのことが除かれたという礼状が数多く届いている0
霊的な諸現象は、その人だけしか知ることができないかも知れないが、現実霊障がとり除かれたことは喜ばしいことである
心理学的にみれは、いずれも深層心理の悩みがとり除かれたために、これらの現象がなくなったのである。
 しかし心理的であろうと肉体的であろうと、その現象がとり除かれたということは供養されたかいがあったというものである0仕事がおもわしくない人が供誉れてからトントソ拍子出世し、肝臓の病も全快し、息子が国実学笑学するという二重三重の喜びに感讐れているのもある・第三の影響は末代である0孫がおかしくなって供養に来られるお年寄りもおられる・若い頃の水子の影響がいざ子供を産みたいと思った時に灸いし享供が出来ないことに気がつき、供養をしてから懐妊したという例は数多い0直接肉体的につながっている母親の体が健康を回復した例も数限りなくある.
不運に悩まされている人の背後に供養されてない水子が必ずといってよいほどあるそれを供養すること忙よっ芸晴らしい結果を得、運を開き幸福を手にしているということは何を意味し何を物語るのであろうか。
 
 特殊な事情がある方のために

 水子に関しては特殊な事情を持っている人が多い。いつも感じるLとは、このような人こそがどうすれは良いか悩んでいるということでぁる。夫婦以外の関係でできた水子。特殊な家庭事情の場合.結婚前に現在の未、妻と違う聞でできた水子。またこれを公にすることによって夫婦間に決定的な亀裂を生ずる事実をもった人などさまざまである。愛し合った夫婦であっても過去の傷が明らかになるのは不愉快だし抵抗がある。
 このような場合、匿名で供養をしている。この場合、施主名のところは某主とする。そして必ず連絡不要と明記してもらっている。直壊釆院参拝の場合は申し出てもいいし、郵送の場合は明記して貰えば一切の連絡をしないことになっている。ただ明記してない場合は諸行事の案内をすることになっているので、特殊な事情の人は必ず申し出て欲しい。
 水子の場合は夫婦間のことで他人に知られたくないはずである。ましてや特殊な事情のある場合は伴侶や家の老に知られたくない。そのため慎重を期し、誰にもわからないようになっている。行事案内すら連絡不可の人は案内をしない。この場合、原則として実名で申し込むことになっているが、それも匿名で構わない。要はその人の供養をするかしまいかという″心″が必要なのである。

 自分の水子でなくとも供養すること

自分自身に水子がなくても兄弟の系列に水子があったのを両親から開いているので供養をしたいとか、また特異な例で、他人だがあまりの不幸が続いて何とかしてあげたいという例がある0本来なら特異な例については本人が気づくべきなのだが、神仏を信じない人であるため見るに見かねて他人が供養にみえることがある。
兄弟姉妹でも他人でも供養を躊躇している場合には、他の人が供養をするのは好ましいことである0先にも述べたように善根を積むということは、どのような形でもよいわけである。布施をする場合でも自分にカがなく物や金を布施できない時は、その布施をする心をもつこと自体が素晴らしい布施なのである。
自分が具体的な善行をしなくとも、善行を喜ぷ心が布施であるということであるから、自分以外の水子の供養であっても素晴らしい善行を積むことになり、その善行によって善果を受けるわけである。

 ∽ 宗派、宗旨、宗教に関係ない

 当院の水子供養の場合、宗流、宗旨、宗教に関係ほない0仏教の考え方は本来広大無遍のものでこだわりはない。宗派、宗旨といえどもその源は釈尊である。後世傑出の人が出て二訴を建てたにすぎないわけで、二言でいえは仏教である。また宗教が違っても仏教ではその人は救われると説いている。
 仏は他の宗教だからといって救済しないということはない。人間等しく大慈大悲の心によって救われるのである。水子供養はかりでなく先祖供養、厄除け三年祈願、特別諸祈願もまた同様である
 ただ先祖供養の場合などでどうしても自分の宗派によって法要をしてもらいたい場合は、その宗派の僧侶を伴ってもらいお堂で法要を営んでもらっている。要は水子供養とはこれらこまごまとしたことに関係なく、自分の子供に対する親の情をもって、この世に生まれなかった子供の霊を慰めるということである。これは親の役目であり義務なのである。この祈りの世界には人間が考える形骸的で観念的な宗派、宗旨というものは存在しないのである。

 医師による水子供養

 最近婦人科などの医師による水子供養が急増している。本来は自分の子供ではないのだから、因果関係はないわけである。また職業上人術を施すわけだから悪業と見ることはできないのである


 水子供養のこころ

 この項において水子供養の意義や供養のしかた、実際例などを書いた。 水子供養は全国各宗のお寺でも行われている。
 当院の広報活動により認識が広まり一種のブームが起きた観があるが嬉しいことである.
今までかえりみなかった小さな生命が供養されることによって鎮魂され、親の勝手な意思により中絶するという好ましくない行動を反省し、生命の尊厳が再認識されたことは望むところである。筆者の願いはまさにこの点にあるわけである。

 水子の存在は古くからあった0現在のような人毒絶がない時代でも流産死産はあったし、 難産で母子ともに死ぬ事もあった0ところが昔の人は水子に対しても認識が深く位辟を作った り墓を作って供養している0歴史のある家の仏壇には何々家水子の霊、何々家亥子の霊という位牌がよくあるものである。
ところが近年医術の発達とともに人工中絶が一般化したために新しい形の水子が誕生することになった0そして医学の進歩とともに人工中絶を安易に行い苦痛も伴わないところから、小さな生命の存在を物のごとくに考えてしまい、親として子に対する愛情を失ってしまったわけである0悲しいことであり恐ろしいことである。
 しかし今これが見直され何らかの形で供養しなければならないと現代人が自覚しっつあることは誠に嬉しいことである0外国においても関心を集めている。人間の生命が何であるかということを思い直す風潮を作った。
 ところで、この水子供養を多くの人が「たたる」という感覚で受けとめ、恐ろしいことのように感じているのは遺憾である0因果関係からみれは「たたる」というごとに似た現象が起きることも時々あるが、「たたる」から「たたらない」からということで供養をするものではない。
 水子供養は親の愛情から親の当然の役目として義務として、心から行うものである。そして子を思う親の心が良い結果を生むのであり、またその心が今生きている子供にも、日常の生活にも、真樹の間の心にも影響し良くなるのである。とにかく先に述べた宿命に当たるものであるから気付いた時には、これを正常化しておきたいものである。
 畜生と呼ばれる犬や猫のペットにも愛情を感じて墓を造る人があるのに、自分の子に対して思いやりをかけない人がいるのはまさに心の荒廃といえよう。
 生命は一つである。たとえ子の命といえども親が所有することはできないのである。
 人間の生命は地球より重いといわれるが、まさに水子供養というものは生命の尊厳に関わるテーマである。