V 身近な仏事の意味と心得
第一部 生活の中の仏教
l 焼香の心得と意味
焼香は元来、インドにおいて体の臭みを除くために行われた風習で、伽羅、白檀などの香木を焚くことをいう。
現在では焼香といえは、仏前での供養だとか、葬儀の時の儀式と受けとめられている傾向にあるが、本来は体臭を除いたり、清めるという意味のほうが大きい。
焼香は十種香とか五種香とかいって伽羅、白檀をはじめ何賃もの香を混合して作られている。よく抹香臭いとかいって忌み事を連想サる傾向にあるが、元来、香というものは良い香りを放ち、さわやかな気分にするというものであるから、できるだけ良い香を使いたいものである。品質の良いものを使わないから、快適な匂いがしないのである。
そこでその焼香の心得であるが、念珠は左手にもち、まず仏前に進む。仏前で一礼したのち、香のおいてある前に進み、仏さまとか、葬儀の場合は正面の戒名、写真をよく見ることも一つの礼儀である。
両手に念珠をかけ、合掌したのち、念珠から右手をぬき、その手で香をつまむ。
つまみ万は三本の.指、すなわち親指、人差し指、中指でつまみ、額のところまで上げ、いただくような形で香炉に入れるのがふさわしい焼香のしかたである0
焼香は一回、または二回が普通であるが、三回してもさしつかえない〇一回焼香し、次にいただくような形をしないでとったら、そのまま入れるというやり方もあるが、この場合はこれを従香という。
l一回焼香は自分を済め、仏さまにさしあげるという意味で、自分と仏さまという意味があり、三回焼香するのは、仏、法、僧に献ずるという意味をもっている。焼香が終わると再び両手に念珠をかけて祈り、左手に念珠をもちかえて、両手をささげて最敬礼ののち退出する。
もし焼香著が多い場合には、焼香の回数、会釈については臨供応変に行えばいい。ただし何かの代表として焼香するような場合は正しく行う必要がある。
誓の場合もある0ふつうの時は完でよいが、正式には六木とされている。六本というのは、六適すなわち地款、篭畜生、阿修羅、人間、天1をあらわしている。
葬儀における焼香は、故人の冥福宗るとともに長く燃え続けるというところから、精進の徳をあらわしたものである。
焼香の順序
ところで誓の順序であるが、順位が前後したために、立場を無視されたとかいって、トラブルが生じやすいので配慮することが必要である。
標準的には長男から見て父死亡の誓、一菅に至雪長芋香に母(夫人)、三菅に喪主の妻占番目に孫(喪主の子…菅峯王の弟、六番目に至の柿妹(他家の妻など)、七菅に叔父、叔母ハ故人の兄弟、柿妹〕、入管宗主の兄弟姉妹の子(故人の孫たち)、九菅に至の委の見栄妹、妄目に雲の従兄弟、十香に故人の友人(年長頂)の傾序である。
なお、故人の立場によって閑蔑体、閑係会社などのある場合には、その会社や団体の規模の大小で瞬序をきめるというの忘なく、故人とのつながりの縁が深いものを先とするのが望ましい。
また、役職を代表して著する場合、知名度もさることながら、音官公庁が優先し、次に半公共的団体、次紆二放となっている・
なお、これら故人の閑係者以外に最も優先するのは列席の僧侶である0式衆特に諾はその儀式作法の中において行う場合が多いが、式衆として参列したのではなく、故人の知り合いと・して参席した場合でも、一番の焼香は僧侶である¢
なお、その種の僧侶が多数参列の場合は、葬儀主催者もしくは雲主催者がその順序を決めるのではなく、讐台を僧侶の前に差し出し、票同で響か、適当に参列僧侶間で著してもらう方が序列などでのちのち問題を撃しさない・
僧侶の世界においては、宗派に大小があろうとも、宗の代表であり格差はない・ましてや、参列の僧侶にいちいち僧階を聞くようなことも、時には失礼にあたるところから、俗人が軽々な判断をもって僧侶の販序を決めないことである。
2 合掌の意味と心
合掌とはふた心のないこと、忘であることの表現である0その姿は誰が見ても敬虔で美しいものである0イソドにおいては礼儀作法のひとつであり、仏教国においてはあいさつに合掌を用いる場合が多い0合掌とは文字通り両の掌をひとつに合せることである。
中国の天台智者大師は「観音経義疏」の中で「合掌は中国にては扶手をもって恭となし、イソドには合掌をもって敬となす。手は本二辺なり、金合して一となす0あえて散誕せず、もっぱら一心に至ることを表わす。一心相当なるが故に、これをもって敬を表わすなり」といっている。
合掌といってもただ手を合せるばかりでなく、座ったままの合掌、立って行う合掌、歩きながらの合掌といろいろある。
それ以外にも十二の合掌のしかたがあると大日教疏に説かれている。
第一堅実心合掌といい、両の掌をかたく合わせて十本の指の先をかるく離した形である.
第二を戯げ合掌という0両の掌を合わせるのにかたくするのではなく、掌の中を少し離し、十指を合わせる合掌である。
第三を未敷蓮華合掌という0虚心合掌よりもさらに手のひらの中をはり、蓮華のつぼみのような形に合掌することをいう。
第四を閑初割蓮華合掌という0蓮華の花の咲きはじめのような形に合掌することである。
第五を顛露合掌という。物をいただくように両手を広げて両の手の平を上に向け、小指の両端を互いに合わせて、物を受けとるような形にする合掌のことである。
第六を持水合掌といい、水をすくうときのような形をすることをいう。顕露合掌に似て、少
し手の平を丸くするような合掌のことである。
第七を帰命合掌といい、金剛合掌ともいう。十本の指を相まじえてする合掌をすることである。
第八を反叉合掌。帰命合掌と反対に、背中を合わせる合掌である。
第九を反背互相著合掌といい、両の掌の背を合わせ、法界定印といわれる印のように、左の掌を下に向け、右の掌を上に向けて背中同士を合わせる合掌である。
第十に横珪指合掌といい、両方の中指の指先のみを横に支えて、他のあまった入指は開き、上にむけて合わす合掌である。
第十一を覆手向下合掌といい、両方の掌を下に伏せて、中指の指先のみを合わせてする合掌である。
第十二を覆手合撃といい、両方の掌を下に伏せて、両方の親指を梼に混えて、そのあまりの指は外に向けて合わせる合掌のことである。
このように合掌にはいろいろあるが、−通常仏さまを拝んだりする場合は堅実心合掌、もしくは虚心合掌である.
3 念珠について
念珠は仏教徒において欠くペからざるものである0念珠のことをふつう数珠といい、あるいは珠数ともいう0ずじゅ、じゆず、ずずなどいろいろな呼び方があるが、一般にはじ孝と読まれている。
数珠の玉は、一〇入を基本とし、享四、四十二、三十六、二十七、二十一、十入、十四というような玉の分け方をしているものもある0数珠の一〇入は人間のもつ一〇入の煩悩を表したものといわれている・そして数珠をもつことにょって一切の悪いことに会わないといわれている0「一切の鬼神は敬良し福力具足し功徳円満す」と陀羅尼集経にその功徳が説かれている.
念珠は単にお参りの時の道具にするというばかりでなく、誓を唱えたりするときの、数を繰るのにも使うという大きな役割をもっている0僧が行をするとき宗型具言を唱えたりするときも、この数珠をもって勘定をする.
僧のもつ数珠は一〇入の玉算に、母珠より二連の房が↑がり、宗流にょっては異なるが五ないし十の殊が並んでいる0扁珠を繰って不動真言を唱えた場合、一〇入回唱えたことになり、母珠から下がる二連の十個の玉を動かしていけば、】○入の十倍になる0差それを十個数かせば、その十倍というように計算できるあけである・
また僧侶が法要のとき、数珠をもんで音を出すときがあるが、これは法要の警りとか終わりとか、また→つの区切りを示す合図ともなっている0
ひがんえ
4 彼岸会について
仏法は常に極端に走ってはだめで、中道であることを教えている0
中道とはものにたとえれば、三十センチの物差しのちょうど真ん中、十五センチのところを意掌るのではなく、両端を超えないということである0窯な誓、二十九・九センチであっても、三センチであっても、いわゆる○や三十一センチにならない、行ききらないといぅことである。そのような意味から春と秋の彼岸は昼夜が平均し、気侯も着からず寒からずの、まさに中道の季節である
そして彼の岸に至るという字を書くように、迷い心の世界から悟りの世界へ至る教えを彼棒という。言葉をかえていえば、理想の達成ということである
釈専は、人間が幸せになるためには、六つの教えを実践することを示された。
その一つは布施である。これはものでも心でもよい、人に喜びを与えることをいう。
二つ目に持戒である。これは規律節制を主とした生活をすることを意味している。いわゆる耐える心、自分を厳しく律する心である。
三つ目に精進である。これは自分の目標に向かって、たゆまず努力することをいう.
四つ目に禅定である。これは常に平常な心をもち続けることを意妹する。
にんにく
五つ日に忍辱である。心をみだりに動かさず、耐え忍ぶことである。
最後の六つ目ほ智慧である。人生の真実を見極め、迷いから去って無常の境地に入ることをいう。
彼岸会は中日をはさんで、七日または三日問行われ、先祖への感謝報恩のお寺参り、墓参りが行われるとか、.諸々の仏教行事が全国的に行われている。おはぎや彼岸団子など仏壇にお供えするのもそれである.
5 お盆について
お盆は、梵語のウランバーナーがウラン盆となり、それがまたお盆となったもので、逆さにかけられている苦しみをも救うという意味である0
釈尊の学、日蓮尊書のお母さんが亡くなられて、餓鬼道に落ちて供養のご飯が火になって食べられず苦しんでいたのを、是著が見てたいそう警、何とか母を救いたいと釈尊にすがったといわれる。
釈革は、人間誰しも知らず知らずのうちに多くの罪を作っているものである0お前のお母さんもそうだったのだろう0このままでは成仏きないから七月十五日になったら、多くの僧侶を集め、仏の道を求めている人たちに供養するから、その助けを借りて救ったら良いであろぅと教えられた。
そこでその通りにすると、釈専の教えの通り、是の母の苦しみはなくなり成隼ることができたといわれる。
母を餓鬼道の苦しみから救った日蓮尊者は非常に喜び、釈尊に対して、今後多くの人々も私と同じように七月十五日にこの供養を営めば、冥土の苦し書救うことができましェうかと尋ねた。釈尊は慈悲心、孝行心から供養すれは、この世において寿命長久、子孫繁栄し、亡き人びとは一驚苦しみを逃れて、来世は幸せな生を受けるであろうと示されたという0これが仏説孟蘭盆経をもととするお盆のいわれである0
租先の至の苦し宴救うためのお盆の供養は、租先に対する報恩感謝の心を欝る、まことにゆかしい伝統的な行事といえる.
6 花まつり
花咲く春の行事であるところから花まつりと呼はれるが、これは釈尊降誕会、もしくは潅仏会ともいう。
今から二千五百有余年前の四月入日は、ネパールの国ルソビニというところで、釈尊が生まれられた日とされている0釈尊が誕生されたとき、甘露の雨が降ったという伝説から、花まつりには花御堂に誕生仏をおまつりし、上から甘茶を注いでお祝いする行事が続いている。また模型の白象を作って、推児とともに引いてまわる行事も各地で行われている。
釈専は、誕生のとき左右の手で天地を示し、天1天下唯我独尊といわれた。だから誕生仏は、そのお賓を表し、両手は天と地を指しているのである。
7 縁日
神、仏がこの世に縁をもつ、入縁の日をいう0また一驚衆生が誓った神仏に縁を結ぶ結縁の日のことでもある。神仏の降誕、示現、誓願立の日にあたっている。祭典とか供養を行うのがこの日である。古来よりこの日に神、仏を念ずれば、特に功徳があるとされている。
鎌倉時代に一定の日を定め、縁日とされたとみられ、最初は年一回だったものが、毎日の縁日へと移行していったものである。なかでも新年の縁日を初不動だとか初薬師といったり、年末の十二月を仕舞天神だとか納観音といったものである。
観音の縁日は、毎月十入日とされている。観世音信仰は古くからあり、名号を唱えるだけで即座に救われるという信仰は庶民の中に深く入り込んでいる。あらゆる苦難に菩薩が姿をさまざまにかえて示現されるという三十三身説は、観音霊場三十三カ所霊場めぐりや四国入十入力所の遍路となってひろく流行し現在でも盛んである。
薬師は毎月の入日、十二日を縁日とする。地蔵は毎月二十四日を縁日とし、七月二十四日は地蔵盆といい、関西方面ではとくに盛んである。各町内で地蔵菩薩を飾り、近所の子供を集めて、さまざまな行事が行われている。
不動明王の縁日は二十入日で、正月二十入日を初不動、大阪の水掛不動、千葉県成田の成田不動などは多くの参詣者がある。筆者の寺も不動明王が本尊であり、毎月この縁日の二十入日に護摩供を厳修している。
虚空蔵書蔭は毎月十三日が縁日とされ、昆沙門天は正月、五月、九月の第一の真の日を縁日としている0
8 粥眼式
仏像や仏画、仏壇、位碑、塔婆などを新しく造ったり、修復したときに、これを供養して御性根入れをすることを開眼式という0文字通り開眼とほ眼を開くことであるが、これは五眼(肉限、天眼、意喝法限、仏限)を開くことである。
この開眼式を行うことにょって、扁体が表して、霊験、霊性を有するのである。またこれとは別に、仏像の御性板ぬき、すなわち慧を行うということもある。これは本堂などを修復する場合、仏像を移転しなければならないので、御性根ぬきし、落慶の暁に毒を元に戻して閑限法要されるのである。
9 仏壇について
仏壇は家の信仰の中心であるとともに、最も清浄な場所である。
天武天皇の白鳳十四年三月二十七日、いまから千二夏†年ほど前に御言をもって「諸国、霊に仏舎をもって、仏像および経巻を毒し、もって三宝へ仏、法、僧)を供学べし」と命ぜガられたことが日本書紀に記されている0これがわが国で仏壇をまつるようになった初めである0
平安時代には費族が、鎌倉時代には庶民階級の警、持仏堂が表化され、さらに幕府の切支丹禁制によって、家ごと蒜属の寺を定め、仏壇、仏画をまつらなければならないと定められてから、各家に仏壇が安誉れるようになったのである0仏像、仏画、鼻陀攣祖先の位牌を安置する家庭用の蔚子を、仏壇と現在では呼び、むかしは須滞壇ともいっていた0
10 仏壇に関する疑問
仏壇はいつ買ったらよいか
仏壇、仏具を新しく求めるのは、年忌や、法要の時でないといけないという地方もあるが、これはまったく迷信である0先祖を敬い御供養しようとすることは善行の一つであり、善いことはいつ行ってもいいわけである。
人間は自分のす姦を決める場合に、お金ができればまず土地を買い、その上に家を建てそして仏壇を作り、墓を買うという順序で人生を歩むという0考えてみればこの順序は、成功の過程を表しているもので、よい事といわなければならない。この順序から考える
と、仏壇を買えるということは、それなりに余裕ができたということである。これは単に経済的な余裕はかりをさすのではなく、心の余裕もできたということである。
だから買う時期をあれこれ考え、年忌や法要の時以外に買うと悪い事が起きるという考えは問題にならない。むしろ買う気持と余裕があるなら、一日も早く備える方が、成功の歴史を手にするということになり、・ひいては幸福を招くことになるのである。
何もない時に仏壇を買うと「新仏ができる」という俗信があるが、まったく根拠のないことで、先祖を供養することによって良い種をまくわけであるから、逆によいことがやってくると考えてよいわけである。これを廻向功徳という。
生きているうちにお墓を買ったり、位牌を造ったりすると、早く死んでしまうという迷信もあるが、仏壇と同様にまったくの迷信で、むかしは生前に位牌を造り法名をもらって武名とし、これを朱で書いて寿牌といったものである。お墓も同様で、なぜこのよシなことをしたかというと、延命長寿を願い、それによって功徳を受けるといわれたからである。むしろ現在の考えと逆であるといわなければならない。
このように仏壇はいつ買っても良いものであり、単に先祖供養はかりではなく、家の中に祈りの心の中心ができることも重要なことである0不和であった家庭内が祈りによって平和を取り戻し、親が忘に拝む姿を子どもが見て教えられることも多い0このように宗教的な意味はかりではなく、教育的、家庭的にも仏壇を備えるということは、大きな働きをなすものであ
る。
11 仏壇の置き場所
仏典に「信は荘厳より生ずる」という言葉がある0信仰というものは荘厳な雰朗気を保たないとおきてこないことを教えているわけで、その証拠に神社、仏閣は荘厳な雰囲気にしつらぇ、よく掃除をし、きれいであることが第一義となっている0僧侶の日課の中でも、清掃は大切な用務の一つである。
仏壇というものは、お寺の本堂の延長のようなもので、まず清潔であるべきである0だからの中でもっとも清浄な場所に安置される必要がある0適当な場所としては客間か、居間といえノことになる。台所では人の出入りも多く、食事の仕度で汚れやはこりもたちやすい0時にはお尻を向けて座ることもあり、先祖に対し失礼である0やはり信仰の中心というものは、身近な生活から少し離れた、家全体からみても家族が「ぼん大切にする部屋が望ましい
仏壇の方角については南向きと東向きが良いとされている0南向きということは北を背にするということである。これは古来より、北は尊い方が座る座といわれているからである.
「君子南面す」とか、それを守護するために「北面の武士」という言葉があるように、北は貴賓の場と考えたものである。
多くの寺院の本堂も、必ずといってよいほど南向きであり、ご本尊も南、もしくは東を向いておられる。中には北向き不動といって特殊な例も見られなくもないが、これはごく一部であ
東向きの場合は、礼拝の時、西を向くわけで、西方浄土の方角に向くことになるから適当といえる。しかし昨今の住宅事情では、仏間を別に設けたり、方角うんぬんといっていると、と
てつもなく高いものになるし、アパート、マソショソには住めなくなってしまう。だからできる限り、南または東向きということに留意し、余程無理な場合は、方角にこだわるのではなく、仏壇という聖域をいかに保つかに配慮すべきである。
仏壇を飾る基本
もっとも基本となるものは、お香と花と燈明のお供えである。香を焚くということは身も心も清浄にすることであり、花は同じく清浄な心で仏の徳を称えることであり、燈明は仏の知恵を表しているといわれる光明に当たる0
ぉ香は線香でも抹香でもよいが中央の香炉で焚く0
ぉ花は花瓶に活けて、向かって左側に供える〇二つの場合は左右両側に供える0
ぉ仏飯は、仏飯券に盛って供えるが、これはお初をあげるもので、家族が食事をする前にお供えするべきである。筆者のところではまずお仏飯をあげ、その次に当主の茶碗にご飯が盛られ、次に家族、従業員にご飯が盛られることになっている0
筆者身が食事をしない時でも、これは変わらない0これは家庭の中におけるひとつの序列である。昨今のように妙な形の子ども優先主義が横行すると、それが当たり前となって、予どもが親を軽々しく見るようになるのである0家庭内の序列や秩序もこういう形で確立したいものである。
ぉ仏飯ばかりでなく、お水を供える時もある0
宗派によってその飾り方は多少ことなるが、要は清浄な場所であるから、風通しの良いところで、常に手入れし美しく保つことである0お供え物を残したままのために害虫が出たり、腐敗して悪臭を放つことのないように十分気をつけなければならない0
古い仏壇はどうするか
あらたに仏壇をもとめ、古い仏壇の処置に困ることがあるが、この時は僧侶に頼んで、魂ぬきとか、御性根ぬきをしてもらう.たいていの場合、仏壇を買うと、僧侶にきてもらって供養をし、開眼の法要が行われるが、これを御性根入れともいっている。
なお御性根ぬきをした仏壇は、長い間一家の信仰の中心であり、先祖をまつってきたものであるから、お寺に頼んで焼却してもらうことが望ましい。筆者の寺では、毎年節分にお札焼きを行うが、その時に全国から持参された仏壇、古くなったお守りも焼いている.宗派、宗旨も問わないので、仕未に困っておられたら節分の前までに当院まで届けられたい。祈念料は随意である。
ご本尊を迎えるには
仏壇を構入する時に、本尊を一緒にもとめる場合もあるが、この場合は僧侶を招き開眼法要をしてもらうことである.
宗派によって本尊も異なり、浄土真宗は阿弥陀如来だとか、浄土宗は阿弥陀如来に、右手聖観音菩薩、左手勢至菩薩をまつるとか、曹洞宗においては釈迦牟尼仏を中心に高祖道元禅師と太祖豊山禅師の両祖を一緒におまつりして、一仏両祖の三尊仏とするとか、天台宗においては、自分の信仰する仏を木琴とし、大日如来、地蔵菩薩、観音菩薩、不動明王などをまつるのである.これとて不明な場合は、檀那寺の住職に相談するのが一番適当である。
同−人の位牌をを二カ所でまつる事について
たとえは嫁いだ娘が、実家の亡くなった両親の位牌をあらたに作って婿家の仏壇におまつりをするとか、本家には先祖の位牌があるが分家にはないために、あらたに位牌を作って分家の仏壇でおまつりをするのは善いか悪いかという質問を良く受ける。基本的にいって同一人の位牌がいくつあってもまったく差しっかえないわけで、むしろその系類のものが各所で供養することは好ましいことである。
その証拠に全国各地に菅原道其公をまつった天神さまがあり、天皇のお位牌も各門跡寺院におまつりして追善の供養を行っているわけである。 ただ嫁いだ娘が、実家の先祖を嫁ぎ先で拝むことは、肉親であるために優先しがちである.それが解家の感情を害し、いつまでたっても解家になじめないなど、嫁と妓の不和の原因にも
なりかねない。
人間の情として、嫁ぎ先より肉親の方が親近感があり、つい丁重に取り扱うこともあろう.別に差別しているわけでもないのだが、婚家の家のものから見れは、差をつけたように思いがちである。これらをいましめるために生まれた俗信だと思われるが、先祖を供養することは、どのような形であろうと、決して悪いことではない.